空白の世界

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  第三話 もう一人の転校生  

 少女は息を切らせながら手摺に掴まり、息を整えていた。
 ようやく息が整ったところで、バスの中を見回すと、雪輝は椅子に座っているのを見つけたが、友里の姿がないことに気がついた。どうしたんだろう、と思いつつも満員のバスの中では身動きがとれず、雪輝の傍まで近づくことさえできない。仕方なしに、彼女―彩音は学校に着くのを待つことにした。

 ようやく学校に着いたところで、彩音は雪輝に近づいた。
「おはよう、雪輝」
「おはよう、彩音」
 そう雪輝が言い、彩音の顔を見て笑い出した。
「……雪輝、何で笑ってるの?」
 そこに少しの怒りと困惑を滲ませると雪輝はごめんといったが、それでも笑いは止まらなかった。ようやく笑いが収まったのか、雪輝が涙を拭いながら彩音を見た。
「彩音って、いつもあんなふうなの?」
 雪輝の言うあんなふうとは、彩音のほぼ日課と課している行動をさしている。
 彩音はまず、朝に弱い。そのためいつも起きるのがぎりぎりになってしまうのだ。その結果、いつもバスが発車し始めると姿を見せ、後ろから大声で、
「待ってぇぇぇぇぇ!!! 乗りますーーー!!」
といい、バスを止めるのである。傍から見ればいい迷惑なのであるが、彩音にとってはとても大事なことなのだ。なんと言ってもこのバスの時間を逃すと学校には間に合わないのだ。必死になるというものである。
「まあ、大抵は……」
 歩きながら彩音は俯いて肯定する。バスの運転手にも悪いとは思っているのだが、なかなか朝起きれないのだ。
「でも、あそこまで大声で叫ぶ人も珍しいよね」
 確かにそうかも、と思いながら一人項垂れて教室へと向かった。

 今日は友里が風邪をひいて休みらしい。学校に着くと友里から風邪をひいて休むとのメールが来ていた。すばやく友里にメールを返信する。

友里へ
風邪、大丈夫?早く治して学校きなよ。
                          彩音

 打ち終えると携帯を鞄に終い、こちらにやってくる翔に手を上げた。その後ろには彩音の知らない男子がいる。
「おはよ、彩音」
「おはよう、翔。えと、友達?」
「ああ、こっちは松田明。明、彼女が河里彩音だ」
「へぇ、この子が翔の彼女? 可愛いーねー」
 翔の背中にのしかかって首を傾げながら問いかけてくる姿は、そこら辺の女子より愛らしさがある。
「彩音、チャン。可愛い名前だねー。ていうかさー、翔の彼女にはもったいないよねー? 翔が嫌になったら俺のとこ来てね? 俺待ってるからさー」
「・・・・・・」
「明、お前いい加減にしろよっ!!」
 肩を震わせながら言葉に怒りが満ちている。
「えー、いいじゃん。別にー」
「よくないっ!!」
「ふーん」
 彩音の隣にいる雪輝は彼らの光景を見ながらぼそぼそと話しかけてきた。
「これが例の転校生?」
「たぶん……」
 例の、とつくのにはわけがある。松田明、という転校生は転校当初から毎日のように告白され続けているらしい。もちろん『告白され続けている』ということは誰とも付き合ってはいないということなのだろう。そのため彼は、瞬く間に学校内で知らぬものはいない有名人になってしまったのだ。
 余談ではあるが、雪輝も美人であるため告白されてもおかしくはないのだが、黙っているときの人を寄せ付けない雰囲気がいけないのだろう、まったく告白というものはされてはいなかった。反対に明は、あの人懐こさが良いのだろうと思われる。
「……」
 雪輝はじっと明を見つめ、諦めたようにため息を一つついて、あれの言ってることは気にしない方がいい、といった。
 言い合いをしていた二人は、ようやく話がついたのか翔は疲れきった顔をしているのに対し、明は飄々とした顔をしている。
「彩音、今日校門前な」
「うん」
 にこり、と笑顔を変える彼女は本当にうれしそうである。それを見た彼女と彼は目を眇める。
「雪輝、今日は帰りごめんね」
「……いいよー。二人でゆっくりねっ!」
「うん!」
 雪輝は頬に手を当てながら、ふと首をかしげた。
「二人って何でいつも一緒に帰らないの?」
「えっ!? じゃあ、俺と一緒に帰ろうよ!!」
 明が口を挟む。
「あー、時間帯が合わないんだ。俺は部活があるから」
「だーかーらー、俺と」
 無視。
「へぇー、何にはいってるの?」
「バスケ」
「ねぇ、聞いてる?」
「レギュラーなんだよ」
「すごいね」
「ども」
「そういえば、翔、もうすぐ大会あったよね?」
「ああ、そうだなもうすぐだな」
「その大会っていつあるの?」
「ちょっとー、俺も混ぜてー」
「いつだっけ? 忘れた、かも。やべ、ボケてきた」
「翔、しっかりしてよ」
「……みんなして、俺のこと無視ですか」
 明のそんなぼそりと呟いた言葉すら無視された。

 今日の授業がすべて終わり、ホームルームも終わると雪輝にさよなら、を言って彩音は校門へと向かった。

「彩音、お待たせ」
「……」
「彩音?」
「えっ、あっ、翔。どうしたの?」
「どうしたの、ってお前、それは俺が聞いてんのっ!」
「あ、ああ、ごめん。ちょっとボーっとしてた。そだ、公園寄ってかない?」
 翔が少し考え、仕方なしに頷く。
 公園、とはよく彩音と翔が行く場所だ。学校のすぐ近くにあり、この辺りに住む人たちがよく犬の散歩をしたり、恋人たちがよく来る場所である。特に夕暮れには夕焼けが綺麗なことで巷には人気のスポットだ。
 公園に行くまでの間、他愛もない話をしていた。公園に着くと、ふいに翔が顔を歪めた。言いにくそうに。
「昨日、電話してきただろ? 大丈夫か?」
「大丈夫だよー。昨日も言ったじゃない。翔は心配性だね」
 ちゃかして彩音は言うが、翔の瞳は真剣そのものだ。その瞳で見られると、動揺してしまう。言わなくてもいいことを言ってしまいそうになる。
「本当に、なんでもないよ。昨日は翔の声が聞きたくなっただけ。気にしないで」
「……わかったよ。でもさ、昨日も言ったけど、ほんとにいつでも電話かけていいからさ。俺は彩音からかけてくれるとうれしいし」
「用事がないのにかけてもいいの? もしかしたらイタ電しちゃうかもよ?」
「まあ、そんときは俺もやり返すだけだな」
「えー、翔もやるの?」
「もちろんだろう」
 そう二人は話し続けた。時間の許す限り。
 そして日が傾いてきた頃。
「そろそろ帰るか」
「そうだね」
「じゃあ、また明日な」
「っ!! う、うん。また明日ね」
そう二人は挨拶を交わして別れた。けれど、彩音はその場に立ち尽くしたまま動くことすらできなかった。翔が去っていく後姿を見つめたまま。
 何気ない、他人のから見れば些細な彼の言葉が脳裏にこびりついて離れない。どうしてこんなにも動揺しているのか。わからない。
 それは自分たちの中で、あまりに日常的な言葉だ。

――また明日な。

 いつもの言葉の筈なのに。変わらぬ日常の筈なのに。
 警鐘が鳴り響く。それは鳴り止むことを知らない。
 彩音はただそこに立ち尽くしていた。
橙色に染まりつつある空は、誰の心を写し取ったのか。それはあまりに残酷であった。
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