空白の世界

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  第五話 一つの予感  

 ピピッピピッ……
 朝日が差し込む部屋の中に柔らかな電子音が響いた。彩音はもそりと起きだし、大きく伸びをすると赤色の目覚まし時計を止めて、ベッドから降り立った。
 カーテンを勢いよく開け、体中を包み込むほどの眩しさを宿した光を浴びる。
 目覚まし時計を見ればまだ6時3分だ。ふんふんと笑みを浮かべながらクローゼットにかけてある制服を取り出し、着替える。
 それは手馴れたもので瞬く間におえた。
 ひんやりとしたフローキングの上を颯爽と歩きドアノブに手をかけ、ドアを開ける。廊下に出、階段を下りる。
 
 テーブルに用意してあった朝食を食べ、立てかけてある時計を見れば6時46分。時間は十分にあった。学校へ行く準備をし、鞄に母親が作った弁当を詰めると、もう一度時計を見る。7時2分。
 時間が迫っていた。鞄を手にし、いつもより、余裕の時間で家を出ると眩しいほどの光がすべてを包み込んだ。

 軽快にバス停までの道を歩きながら辺りを見回す。
 住宅が立ち並ぶこの道が彩音は好きだった。
 いつもは寝坊してよく見ることができない景色だが、夕暮れの時間の景色は知っていた。橙色に染まった空に、それぞれの家々から漏れてくる笑い声やおいしそうに漂ってくる匂い。

――羨ましかった。

 ぴたりと彩音は立ち止まった。それでも気にしすぎだとまた歩き出す。
 そう、この景色が好きだった。変わらない日常の象徴のようで。
 立ち止まると、バス停についていた。
「もうちょっと時間あるなぁ。友里風邪治ったかな」
 彩音が来た方向とは反対の方向から人影が見えた。
 ゆらりと視界が湾曲……した気がした。
 人影が手を振ってきた。あわてて彩音もまた手を振る。人影が近くによって来た。
「おはよう、彩音」
「おはよう」
 柔らかな笑顔が彩音に向けられる。彩音もまた笑顔で答える。
「おはよう、雪輝、友里」
 時間きっかりにバスが来た。

ゆらりゆらりと揺られながら三人は学校へと向かう。
「友里、風邪はもう大丈夫なの?」
「もう治ったよ。大丈夫」
「そっか」
 会話はそこで途切れ、続かない。これ以上は言葉を発することがいけないことのように感じてしまう。
 バスが学校の前に着いた。
 リズミカルに雪輝はバスを降り、彩音と友里は対照的に足取りが重い。
 嫌な予感がした。
 それはバスに乗ってから始まり、それは次第に強まっていく。弱まる気配など一切感じられない。
「彩音。来てほしいところがあるんだ」
 そういう雪輝は笑っていた。警鐘が鳴る。
「が、学校はどうするの?」
 恐怖で声が上ずってうまく声が出せない。
 雪輝が笑みを深めた。
「大丈夫。もう一ヶ月以上も休んでるからいまさら休むなんて意味ないわ」
 彩音が疑問を口にする前に雪輝が彩音の腕を掴み、引きずろうとしたとき、彩音を反対側から掴む手があった。
「どこに行くの?」
「友里……」
「……消えろ、紛い物」
 低く、雪輝は呟いた。彩音がはっとして雪輝を凝視する。
「消えろって言ってんの。お前には用はない」
 今までの雪輝にはありえない、冷淡な声。友里の顔は次第に表情をなくし、消えた。その存在自体と共に。彩音の目が見開く。
 何が起こったの。
 彩音の思いとは裏腹に雪輝は彩音を引きずっていく。
「ちょっ、雪輝! 雪輝、どこに行くの!? ねえ、友里をどうしたの!? 雪輝っ!!」
 混乱して自分が連れて行かれる場所なんて気にも留めていなかった。
 疑問が頭を駆け巡る。
 友里はどこに消えたのか。
 紛い物とは。
 一ヶ月以上休んでいるとはどういうことなのか。
 自分は今まで学校を一度も休んではいない。それは雪輝だって知っているはずなのに、彼女が断定するように言ったのが気にかかる。
 冷や汗が知らずに流れる。
「雪……」
 彼女を呼びとめようとして、彼女が足を止めた。
 目の前に広がるのは、公園。昨日翔と来たばかりの公園だ。
 なぜここに来る必要があるのか。なぜ、ここ、なのか。ここは。
「彩音。ここ知ってる?」
 唐突に質問する雪輝の声は聞こえていなかった。雪輝もまたそれは期待していなかったのだろう。一人で喋り続ける。
「20××年7月28日。橘翔が河里彩音に告白をする。河里彩音はそれを受け、二人は正式に付き合うこととなる」
 機械的に告げられる言葉はまるで文書を丸読みしているかのようだ。雪輝が彩音を捉える。その視線は嘘を付くことを許されない眼光だった。
「合ってるよね」
 肩が震えた。目の前にいる雪輝は、彩音が知っている雪輝とはまるで異なっていた。かもし出す雰囲気がまるで違う。
 彩音の知る雪輝はもっとやわらかく、その中に冷たさを持っている。だが、今の雪輝にはやわらかさは一切存在しない。あるのは滲み出るような冷たさだけだった。
「だが、知らなかった、群木友里もまた橘翔を好きだったということを」
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