空白の世界

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  第九話 崩壊と誕生  

 悲鳴が空気を伝って耳という器官に響く。それは鼓膜さえ破りかねない、絶叫ともいうべき、絶対の音。いくら耳をふさいでもそれは振動し、響く。びりびりとした空気があたり一帯を覆い尽くし、飲み込む。
 雪輝と明はその音に膝をついて耳をふさいだが、それでもなお音は体を突き抜けた。全身が震えた。恐怖ではなく、怒りで。
「現実を見ろっ!! 河里彩音!!」
 その声はひどく冷静で、慈愛を含んでいるように思えた。そして、その瞬間、音は消えた。


雪輝が叫んでいるのが分かった。けれど分かるだけ。目を閉じて殻に篭って彼女、彩音は閉じこもっていた。何も聞きたくはなかった。ぎゅっと身を縮ませて耳を押さえる。
「『裏切られた。裏切られた。裏切られた』あんたはそれだけしか言えないの? それより、あんたは何かをしたの?」
不意に聞こえた雪輝の声にぎくりとした。けれど必死に聞こえないふりをして耳をふさぐ。しかしそんな彩音を嘲笑うかのように放たれた言葉が容赦なく彩音に襲い掛かる。
「世界一自分が可哀相。そう思っているなら思いを改めたほうがいい。お前より不幸な人はこの世界、五万といる」
 けして強い口調ではない、けれどその言葉は彩音を貫いた。
 ぴしり、と殻に小さな穴が開き、ぼろぼろと殻がこぼれていく。穴から見る世界は暗く淀んでいる。目を逸らそうとした一瞬、小さな光が見えた。
「あの時、ここで二人から話を聞いたときお前は逃げたんだ。その現実に目を向けることを諦めて、逃げることを選んだんだ」
 ぎくりと心臓が鳴る。景色が瞬く間に変わり見覚えのある公園に変わる。あ、と彩音は小さな声を漏らした。
 自ら殻の穴を広げるように手をかける。そこには彩音が最も信頼している二人が佇んでいた。否、二人だけではない。そこには彩音自身もいた。何が起こっているのか分かっていていないような顔で二人を見つめている。
 三人の話す声が聞こえた。
『・・・・・彩音、ごめん。謝って済まされることじゃないと思う。でも、彩音より友里が今は好きなんだ』
『ごめん、彩音。でもあたしも翔が好きなの』
 口々に放たれる言葉を消化しようと彩音はそこから見ていた。
 そしてああ、と呻いた。これは閉じ込めたはずの、消したはずの記憶だ。
「……し…。ど……して。どう、してっ!!」
 消したはずなのに、忘れたはずなのに。どうして思い出させるの。
「聞きたくない。何も聞きたくない!!」
 やっと忘れられる場所に、幸せな場所を見つけたのに、邪魔をしないで。
「あ、たしの居場所は、ここにしかないのおおおおおお!!!」
 そう、あたしの居場所はここしかない。だって、起きたらきっと誰もいないもの。だからみんなのいる世界に閉じこもるの。だって一人は寂しくて、苦しいから。

――偽りの世界は楽しい?

 冷たい雨が優しく降ってくる。空から響くように聞こえた声。この、声は。

――彩音、ごめんね。あたしのせいで起きて来れないんだよね。あたしが彩音を傷つけたんだよね。こんなこといっても許されるとは思ってないけど、本当にあたしは彩音を傷つけるつもりなんかじゃなかった。
――翔はね、ずっと彩音が心配だったんだよ。これは本当。高二の夏ぐらいから彩音どこか暗いときがあったよね。翔、ずっと話してくれるの待ってたんだよ。でも彩音ずっと一人で抱え込んであたしにも話してくれなかった。親友だって信じてたのに。……ごめん、これじゃ、責めてるみたいだね。
――ねえ、彩音。あたしのこと怒ってる? 怒ってるよね? 怒っていいよ、殴りたいなら殴ってもいい。だから、起きて、起きてあたしを怒って?
――あたし彩音のこと好きよ? 大好き。だから起きて。

 友里の声は確実にけれど残酷に彩音の心に響いた。

(どうすればいいの。ここから出る? そんなことできるはずない。また友里に裏切られるの? またあのときみたいな思いをするかもしれないのに。無理よ。でも、……ここで起きたら何か変わる? また前のような二人に戻れる? どうすればいいの?)
 彩音の心の中に戸惑いが生じる。
 信じるのは怖い。また裏切られてしまうかもしれないから。

――だったら信じなければいい。眠りにつきなさい。深い眠りについて目を閉ざし、耳を塞げばいい。そうすればけして傷つくことはない。

――私があなたを守ってあげる。

――ずっと守ってあげる。

 彩音はゆっくりと殻を破り、外へと足を踏み出した。


 音が風がすべてが止まり、静寂が訪れた。緊張は解かず雪輝と明は辺りを見回す。ここは彩音の心を反映している世界だ。静寂は何を意味するのか。それを雪輝は理解できずにいた。それは明もまた同じだろう。
 こつん、と音がして、雪輝と明はその方向を見た。
「はじめまして、というべきなのかしら?」
 くすりと笑って妖艶な笑みを見せたのは彩音だった。けれどその口調が雰囲気が先ほどまでいた彩音とは違った。
「あんたは誰?」
「私? そうね、アヤとでも言っておきましょうか? ああもちろん体は河里彩音よ?」
 ふふ、と笑うアヤは底知れぬ怖さを感じる。雪輝に緊張が走った。
「ああ、早くここから出たほうがいいわよ? もうすぐここは崩れるから。ねえ、分かってるんでしょ? そこの彼」
 視線を向けられた明は眉を寄せ、それでも頷いた。
「アヤ、お前は彩音のもう一つの人格だろう? 俺たちがここにきたときはいなかったはずだから、お前は誕生して間もないはずだ。そして、お前がその姿をして出てきたということは、彩音は完全に眠ることを選んだ、という感じか」
「ふふ、正解。でも一つ訂正を入れるのであれば、あたしは最初からいたわよ? だって私は『彩音』だもの。詳しいお話は現実でしましょうか。友里もいるみたいだし。手間が省けてちょうどいいでしょう? ほら、崩れ始めた」
 アヤが指差した方向はがらがらと崩れ始めていた。闇が空間を侵食していく光景に、その速度に雪輝と明はこのままではそれほど時間はないと即座に判断した。
「必ず話してもらうわよ」
「ええ、もちろんよ」
 短い言葉を交わして雪輝と明は目を瞑った。だからそのあとアヤが言った言葉を聞くことはけしてなかった。

「話すわよ、すべてを。彩音を守るためなら。彩音、守ってあげる。私はあなたを守るためにいるんだから」
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